100円の豆苗が教えてくれた、人間らしさの正体

100円なのに面倒くさい、だけど捨てられない

数日前、スーパーで豆苗を買ってきて食べた。安いし栄養もあるし、最近の私のお気に入りだ。
食べ終わった豆苗の根っこ部分を、水に浸して再び育てようとする──いわゆる「リボベジ」を試みている。

だけど、これがなかなか厄介だ。すでに4日経っているのに、育ちはほんの数センチ。
水は毎日替えないと容器がヌルヌルするし、小蝿が湧く。部屋が狭いせいで置き場にも困る。

たかが100円のために、どれだけのコストをかけなきゃならないのか。
なんて非効率なんだろう。正直、邪魔で仕方がない。もう二度と買うまい。そう思った。


記憶の底から蘇った「家庭菜園の熱」

けれど、その瞬間ふと、昔の記憶が蘇った。

コロナ禍で外出が制限されていた頃、私は家庭菜園に熱中していた。
トマト、バジル、枝豆、大葉、そして豆苗。まるで保育士のように、植物たちの世話に明け暮れていた。

ブログに育成記録を投稿しながら、台風の予報が出れば室内に避難させ、
成長した茎が倒れぬよう支柱を立て、毎日水を替えていた。

あの頃、私は明らかに「愛情」を持って野菜と接していた。


なぜ人は、非効率な営みに惹かれるのか

それが今、「実に邪魔」だなんて──。
私は、何か人間として大事な感情を忘れていたのではないか。そう思わずにはいられなかった。

なぜ人は、こんなに非効率な営みに惹かれるのだろう。
効率やコスパが優先される社会のなかで、こうした“無駄な手間”は切り捨てられがちだ。

でも、誰に褒められるわけでもない手間には、人間らしさが滲み出る。
司会の仕事でも、日本語の授業でも、そういう「ちょっとした手間」が場をあたため、人を安心させる瞬間がある。
手間をかけることは、相手や場に寄り添うことでもある。

だから、たとえたった100円の野菜であっても、それを手間暇かけて育てようとする行為には、失われかけた人間性を取り戻す力があるのかもしれない。


豆苗と私──そしてこれから

今、我が家の豆苗はキッチンの換気扇の上にいる。
背伸びしてやっと届く高さだけど、ここなら誰にも邪魔にされず、静かに過ごせる気がしたからだ。

3センチほど伸びている。収穫できるのは、10日後くらいだろうか。
それまで毎日、水を替えてあげようと思う。

この豆苗のためというより、たぶん──私自身のために。


追記:10センチ分の学び

その後の話をすると──。
もっと大きくしてから食べよう、と欲張った結果、豆苗は1日で急に下の方が腐ってしまった。
結局食べられたのは、上の無事だった部分、わずか5センチほど。10センチ分は無駄になった。

欲を出すと、せっかくの実りも腐らせてしまう。
豆苗を通して、効率や非効率だけじゃなく「ちょうどいい時を見極める感覚」も大事だと知った。

1行自己紹介

鈴木笑里(すずきえみり)/イベント司会者&日本語教師。人間の心を忘れないように、日々の「無駄」を大切にしている。