私は長年、イベントの司会者と日本語教師という仕事をしています。
「全然違うのになんで?」と思うかもしれません。確かに、イベント会場で場を盛り上げる仕事と、自宅でパソコンを通して世界中の人に日本語を教える仕事。正反対に見えるのも無理はありません。
でも私にとっては、どちらも同じ“神経”を使う仕事なのです。具体的には、“言葉を扱う”という点で、私はこのふたつを一つの営みとして捉えています。
ふたつの仕事に出会ったきっかけ
イベント司会者になるきっかけは、偶然やって来ました。
学生時代に企画したイベントで、たまたま司会を務めることになり、それが見事にハマった。「これからもこういう仕事をしていきたい!」と強く思い、全身に電流が流れたような感覚になったのです。
日本語教師についても、思いもよらない形で始めることになりました。
コロナ禍でイベントの仕事がゼロになったとき、たまたまオンラインで語学を教える先生がいることを知りました。昔から私は言葉の構造に興味があり、高校時代には趣味で百人一首などをひたすら品詞分解していたものです。
友人に訛りを指摘されて「NHKアクセント辞典」を買うくらいには、「正しい日本語」に対する感度も高かった。だから、「もしかしたら私にもできるかもしれない」と思い、日本語教師になることを決意しました。
言葉を選んだのは、偶然じゃない
これらの動機はまったくの別物に見えるかもしれませんが、どちらも「言葉を使った仕事」であることは共通しています。
長年情熱を持って続けられているのは、私が言葉を扱うことに大きな喜びを感じられるからに他なりません。
では、なぜ私は言葉に対してそこまでのこだわりを持っているのか?
単に「好きだから」ではない、もっと根深い理由——生きていく上での“必需品”として、言葉が必要な理由があったのです。
感情と衝動を制御する「理性の装置」としての言葉
私はもともと、感情がものすごく強い人間です。
よく言えば思い切りが良く、行動力がある。悪く言えば、衝動的で、ブレーキが効かない。感情に任せて突っ走って、気づいた時には取り返しのつかないことになっている──そんなことが何度もありました。
もちろん、失敗すれば傷つきます。行動に勢いがあるぶん、反動も大きくなるのです。
昔の私は、いわば“ガラス製のロケット”。思いっきり飛び出すくせに、着地に失敗して粉々になる。
そんなとき、私を助けてくれたのが、言葉の存在でした。
なぜ失敗したのか。どういう状況でそれが起こったのか。私は今、何を感じているのか。
それらを冷静に分析し、現実を受け止めるには、言葉の力を借りるしかなかった。言語化することで初めて、私は「立ち直る」ことができたのです。
やがてネガティブな出来事がなくても、私は言葉に頼るようになっていきました。
言葉は、凹んだ状態から回復させてくれる“道具”から、一緒に人生を歩む“伴走者”へと変わっていったのです。
言葉はツールであり、人生の目的でもある
今となっては、私にとって「言葉」は自分の感情を守るための“理性の装置”です。
つらいことは極限まで減らしてくれ、嬉しいことは何倍にもしてくれる。そう考えると、まるで人生の伴侶のようですね(笑)。
もう一つ、言葉には大きな意味があります。それは、混沌とした世界を“見える化”するツールであるということ。
現実の世界は、モザイクがかかっていてよく見えません。
しかし言葉の力を借りれば、見通しが良くなる。
たとえば、グラデーションになったレインボーカラーを想像してみてください。「ここは何色?」と聞かれても、はっきり答えるのは難しいですよね。
でも、「7色に分けてください」と言われたら、境界線を引いて区別することはできます。
──言葉とは、この“線を引く力”なのです。
混沌とした曖昧な現実を、はっきりした輪郭のあるものへと変える。それが「言葉」です。
「司会」という仕事における言葉との向き合い方
司会とは、言葉を使ってその場の空気を動かす仕事です。
その場の空気というのは、かなり抽象的でアナログな概念。それを言葉で切り分け、“見える化”することで、デジタルに変換する。
そうすることで、人の行動に変化を与えることができる。それが、この仕事の面白さです。
また、イベントの司会やナレーションには“音楽的要素”を見出すことができます。
声の高さ(振動数)、声の大きさ(振幅)、声の質(波形)、そして「間(リズム)」。
駆け出しの頃は、どんな話し方がその場にふさわしいのか判断がつきませんでした。でも、“音楽性”の意識が、私の技術を支えてくれたのです。
先輩の司会者を観察し、音楽要素を分析し、パターン化して自分のデータベースをつくることで、どんな現場にも対応できるようになっていきました。
日本語教師としての言葉との向き合い方
私が日本語教師として特に力を入れているのは、発音指導です。
読み書きや文法ももちろん教えられますが、司会者・ナレーターとしての経験を最大限に活かせるのが発音なのです。
見えないものを明らかにして言葉にして伝えるという構造が、司会の仕事とまったく同じだからです。
たとえば、学習者が感じるモヤモヤを分析し、言葉にして課題を特定する。そしてそれを的確に伝えることで、相手の行動が変わる。
これって、イベント司会と本質的には同じことをしているんですよね。
発音にも“音楽性”はあります。
単語のアクセントは音の高低(=振動数)、文章のイントネーションはメロディーライン。促音(「っ」)や撥音(「ん」)、長音(伸ばす音)は、リズムを意識して発音する必要があります。
音楽性に着目することで、分析や構造化がやりやすくなる。だから私は、日本語の発音指導に音楽的アプローチを取り入れているのです。
言葉で、世界を繋げたい
私にとって「言葉」は、混沌とした世界をデジタルに変える装置であり、それ自体が人生の目的になり得るものです。
水の中で目を開けたようなボヤッとした世界を、4Kテレビのような解像度の高い世界へと変えてくれる。
他人同士は、所詮わかり合えない存在です。動物の世界を見ればわかるように、基本的には弱肉強食。
人間も動物の一種だとすれば、みんな自分の利益のために生きている。
でも、人間には「言葉」という理性の武器がある。
言葉を的確に使うことでのみ、相互理解の可能性が開かれる。私は、その可能性に賭けている。
言葉を通じて、人と人を、そして世界を、繋げたいと思っているのです。
1行自己紹介
鈴木笑里(すずきえみり)/イベント司会者&日本語教師。日常を片っ端から言語化するクセがある。